飯山町と坂出市にまたがる山で標高462.3mにある古代の朝鮮式山城跡、標高400m前後に第一車道(くるまみち)、100〜150mほど下がって第二車道が巡る。谷あいで石塁、他の斜面で土塁となる頂部鉢巻型の塁壁は、内側に約5m幅の歩道を確保しており、車道と呼ぶ。第一車道の北端部に堅固な城門跡、西へ回ると窪地をせき止めた石塁に水口(みずくち)跡がある。頂部に望楼跡を示す礎石群が残る。東へ回ると明神原のあたりや西麓の川津町からの登山道付近にマナイタ石、ホロソ石が散在する。それらは、組み合わせて門柱座となると考えられ、両地点にも城門の存在が推測される。しかし頂部礎石群が不定間隔で門柱石が散在する状況から、城山城の未完成説もある。一般には「日本書紀」に登場する屋島城より先行するといわれる。
これらの遺構は朝鮮百済の公州山城や扶余の半月城、林川の聖興山城と同じ築き方をしている。東麓の府中町に讃岐国がを控え、大規模な築城工事跡を留める城山跡が正史に記録されなかったのはなぜか、謎が多い。